コスタ・デル・ソル 1


アパート

5月、シーズンオフのリゾート地 TORREMOLINOS に迷い込んでしまった。
それまでそれほど苦労せず探し当てていた安ホテルが全くないことに気が付き、茫然としていた。
懐具合にあったホテルが見つからず、値切る交渉をしていく中でアパート滞在という方向に進んだ。
〈それまでのホテル代は750〜2000pstであったが、この地では5000pst以上であった。1pst=1.5円〉
一週間宿泊ならば...半月で...と交渉が進み、一カ月の滞在で一日当たり1500pstになった。 それで手を打った。

これまでは、その街に2〜4日の滞在という旅のスタイルであった。
一か所に長期滞在する事になってしまったが、この巡り合わせは新鮮であり、失敗ではなかった。

一泊1500pstでは体感できないリッチな宿である。実際にアパートに案内された時は驚きの連続であった。
このアパートは20階建てのビルで、真面目だがフレンドリーな門番が常駐している。まるで高級マンションである。
エレベーターで11階に上ると私の宿がある。20畳はあったであろうリビングには、壁に備え付けの棚があり、その一部にダブルベットが組み込まれていた。棚からベッドを引き下ろし寝るというスタイルだ。テレビ以外の家具や毛布、台所用品に至るまで揃っていた。十分過ぎる大きさのキッチン、そこそこきれいなバスタブ付きの浴室、トイレ、ちょっとしたバルコニーもあった。
そのバルコニーから見える風景がとても気に入った。同じようなビルが目の前に立ち並んでいるのだが、そのビルとビルの隙間に縦長に切り取られたコバルトブルーの空とセルリアンブルーの地中海が見えた。真下に目をやれば、野外映画館のスクリーンが見えた。残念ながらシーズンオフだからであろうか、私の居る間一度も放映されなかった。しかし、その寂れたスクリーンも赤ワインの肴には持って来いであった。

サラ・デ・トキオ

新たな日課となったのが、門番との挨拶と仕事探しである。
オープン1年の往復切符より割高な片道切符と総予算100万円からスタートした旅である。いつかは働かねばならないと思っていたが、まだ懐が温かい状態でこういう流れになるとは想像していなかった。
観光ビザで入国した私には、簡単に仕事など見つかるはずはなかった。
どこを訪ねても「今シーズンオフだから仕事はない」と言われた。
「おまえは日本人だから、日本料理店に行けば仕事に有り付けるかもしれない」とアドバイスも受けた。
当時、トレモリーノスには2軒の日本料理店があった。一つは日本語が通じない日本料理店(中国人の経営する店)、もう一つがサラ・デ・トキオである。
サラ・デ・トキオでも同じように「シーズンオフで暇だ、仕事はない」と言われた。
しかし、裏情報と牛丼を私に与えてくれた。
この店主がジョーさんだ。

幸運の前兆

ジョーさんの話によれば、トレモリーノスの北西にあるMIJASという村に行けば露天商営む日本人が居る。その人ならばスペインをよく知っており、仕事の世話もしてくれるはずだ。ただし、その人には兄がいて、日替わりで店に立っている。弟の担当日に行かなくては仕事の話は出来ないだろう、ということであった。
どの日にどちらが担当するかなどわからず、『弟の日』であることを願いながらミハスに行った。

ワインディングロードをバスで登って行く。白壁の家が山間にひしめき合って、吸い込まれるようなコバルトブルーディープの空を背にギラギラと太陽を反射している。カーブで方向が逆転すると、潮の香りと共に白波を立てた地中海が迫ってくる。
バスは土産物屋が折り重なるロータリーに辿り着く。終点である。
『山の頂上付近でその日本人は店を出している』というだけの日本では不安になる情報だが、スペインでは十分な情報に思えてしまう。
停留所から期待を胸に歩き出した。ほどなく目的の日本人らしき人を見つけた。その人もこちらを見ているようだった。弟であることを念じながら、何度もその人の前を通り過ぎた。

念は通じなかった。しかし、これは幸運の前兆となった。

この兄が仁平さんである。
やはり仕事の話は出来なく、お互いのこれまでの話をした。私は何者でなぜ旅をしているか、仁平さんの若いころの旅の話や現在の暮らし、スペインでの創作活動についてなど、白壁の色が変わる頃まで話した。
話しているうちに、仁平さんは彫刻家であり、私と同じ大学を卒業していることが判明した。
この広い地球の中でこのような出会いをするのは奇跡に思えた。
後日、仁平さんのアパートを訪ねる約束をして別れた。

結果的に、仕事には有り付けなかった。

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