Ebisode 5

NY地下鉄

地下鉄  文:ebi

昨日からシトシトと降り続いていた霧雨のような雨が今は一時的に止んで、窓の外の世界はどんよりとした灰色の空の下で全てがしっとりとしていて、通りを走る車やバイクの音もどこかこもった感じに聞こえてくる。このところ忙しくて眠くてイライラしていて、まるでゴツゴツした未舗装の道路を時速100kmで走り続けてるみたいな落ち着かない気分の日が続いて、とても過去を振り返る気分にはなれなかった。
僕にとって自分の過去を振り返るのはかなり大変な作業である。他人と比較してみると僕が記憶している過去は明らかにそのデータ量が少ないのだ。そのことに気付いたのは高校生の頃だ。友人と思い出話をすると決まって僕には覚えていない事が多過ぎた。今では昔からの僕の友人はみんなその事実を知っている。きっと僕の脳のCPUが旧型なのかハードディスクの容量が少ないのだろう。
そんなわけで僕が自分の過去を語るには、真夜中の月明かりに照らされた波紋一つないロシアの山奥の湖の湖面のように穏やかな精神状態で、蜘蛛の糸をたどるようにして埃のかぶった記憶の箱を探し当てそっと開かなければならないのだ。まるで爆弾処理班が時限爆弾の回路を遮断する為にカットする配線の一本を探すみたいに、集中するんだ。
年齢を重ねるごとに月日は確実に過ぎ去るそのスピードを増し
かつて愛したもの達は遠い記憶の中へと埋もれて行く

僕は音楽をたよりに 埋もれてしまった小さな古い記憶を探し出して
手の平の上で埃をそっと掃う
それはかつて僕の心を激しく揺さぶり また優しく包んでくれたもの
僕はまるで古いレコードにそっと針を落とすみたいにその記憶の蓋を開けるんだ

とにかく俺達はよく飲んだ。
本当に浴びるほど飲み続けた。
ハードロック専門のチャンネルのラジオを聴きながら、
ジャックダニエルをボトルから直接ラッパ飲みしていた。
そのおかげで彼はアル中寸前まで行っていた。
俺達はよくワシントンスクエア近くの彼の部屋で酒を飲んでいた。
7階にあるその部屋の窓から通りを見下ろすと、路上に駐車している車のトランクをバールでこじ開けている黒人や車の窓ガラスを叩き割るヒスパニックの姿をしょっちゅう目撃した。

当時は毎日誰かしら殺されていた。
地下鉄の車内で
ホームで
イーストサイドエンドやウエストサイドエンドの路上で
アパートに侵入されてレイプされたあげく殺されたり、10代の幼い黒人の子供にホールドアップされて逆らった為に撃ち殺されたり
俺達は翌朝のニュースでそれらを知った。
夜になると至る所で車の防犯装置のアラームクラクションが鳴り続けていた。

彼のアパートで飲んだあと夜中の2時、3時に俺は95丁目にある自分のアパートまで地下鉄で帰った。
ちなみに96丁目から上がヒスパニックハーレムで、俺はニューヨークにいる間96丁目の道路を渡ることは一度もなかった。
ニューヨークの地下鉄は24時間営業だが夜中はせいぜい一時間に一本しか運行していないので、ベロベロになってる俺はホームの端でゲロを吐きながら電車を待った。
悪名高い当時の地下鉄だが夜も12時までは比較的安全だった。東京の地下鉄と変わらないほど多くの人が乗っている。週末の夜は1時2時まで結構満員だったりする。
でも平日の2時3時はさすがに誰もいない。ワシントンスクエア近くの駅ですらホームで電車を待つ人はせいぜい2、3人だ。
車両に乗り込んでも俺の乗った車両に乗客は誰もいない。
俺一人だけだ。
そんな状況で独り静かに座っていると、隣の車両とのドアをガラリと開けてよく黒人が入ってくる。
この時ばかりはベロベロの俺にも緊張が走る。
大抵はチェィンジチェィンジと小銭をせびるホームレスだが、俺に向かって歩いてくるからヤバい!と思って酔いも一気に覚める。

ある日いつものように独りで車内に座っていると、ガラッとドアを開けて一人の黒人が俺の車両に入ってきた。しかもデカい。歩幅もデカいから、あっという間に俺に近づいてきてピタリと俺の前に立ち止まった。
ヤバい!
と、身構えようとすると、そいつはなんと
いきなり唄い始めたのである。
しかも透き通るようなとてもいい声で。

KILLING ME SOFTLY WITH HIS SONG

それはとても素敵な体験だったと思う。と同時に、こんないい声で唄うやつがこんなところで小銭を稼いでいなくちゃならないほどのアメリカという国の層の厚さと底の深さを思い知らされた気がした。
彼は唄い終わると小銭の入った紙コップを俺の前に差し出し、俺はポケットの小銭を全て出してそれに入れた。
彼は満足そうにニヤっと笑い黒人特有の真っ白い歯を見せると、次の車両へと姿を消した。

翌日俺は英語学校の教師で自身アマチュアバンドでライブも時々やっているサムに昨日の出来事を話し、誰の曲なのかを尋ねてみた。歌詞はわからなかったが、幸いメロディーは覚えていたので歌ってみせると、フフフンフフフンとそのメロディーを繰り返したあと、
OH YEAH! I GET IT!「やさしくうたって」だよ!ロバータフラックだ!
君は聴いたことないの?いい曲だぜ?
と教えてくれた。

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